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景観豊かな宇治市
宇治市(うじし)は京都府の南部に位置し、世界遺産ともなっている平等院、宇治上神社などで知られる市です。
市街地に流れる宇治川の河川敷の景観は素晴らしく、琵琶湖を源流とする宇治川の周りには豊かな自然が広がり、憩いの場を提供している。宇治川にかかる宇治橋は日本三古橋のひとつに数えられており、宇治橋から眺める上流もまた情緒のある景色となっている。
また宇治市は源氏物語の舞台にもなっており源氏物語は五十四帖から成り、最後の十帖が主に宇治を舞台にしているところから「宇治十帖」と呼ばれています。
高級茶の代名詞としても使われている「宇治茶」も有名で、宇治橋通りや平等院通りの茶店にはたくさんの人が訪れています。
宇治茶の歴史
宇治茶の起源
起源は非常に古く、1191年、栄西によって中国から日本に、茶種と共に宋の時代の抹茶法が伝えられました。栄西は、京都栂尾高山寺の明恵上人に茶の種子を贈り、明恵上人が栂尾に植えたのが栂尾茶の始まりです。
その後、明恵上人が宇治に茶をまいたのが、宇治茶の始まりと伝えられています。宇治茶は、14世紀末ごろまでは、栂尾の茶を本茶と呼ぶのに対し「非茶」と呼ばれていましたが、宇治七銘園が拓かれたことで宇治が日本一の茶産地となり、「本茶」の地位を固めました。
近代における宇治茶
江戸時代に入り、幕府が使用する宇治茶は、毎年幕臣によって宇治から江戸城まで運搬されていました。
1738年に、宇治田原湯谷の永谷宋円によって現在の煎茶製法が作り出されました。その後、この製法が全国に普及し、明治29年頃には高林謙三によって製茶機械が開発され、機械による製茶が行われるようになりました。
当初は機械の性能も大変悪く、中揉までは機械で、その後は手揉製法を使用して製茶を行っていたようです。
しかし、手揉製法によって生じる重労働、人件費の高騰と機械の大幅な改良によって、機械による製茶が主流となり、手揉製法は衰退していったのです。
宇治茶の現状
明治初期、宇治市・京都市周辺には、京都府の約半分の面積に当たる1300ヘクタールもの茶園がありましたが、時代の経過とともに減少し、現在では100ヘクタールを下回っています。しかしながら、生産者や茶商工業者のたゆまぬ努力により、現在においても宇治茶の品質は日本一の座を保ち続けています。
いろいろな宇治茶
宇治茶も含め、国内で生産されるお茶は、ほとんどすべてが緑茶。その緑茶が、栽培方法、摘採時期、製造工程などの違いによって、さまざまな種類のお茶になります。
ここではその中の一部を紹介したいと思います。
一番茶、二番茶、三番茶
一番茶は、その年の最初に生育した新芽を摘み採ってつくったお茶のこと。以降、摘み採った順番により、「二番茶」「三番茶」と呼ばれます。「一番茶」のことを「新茶」と呼ぶこともあります。
かぶせ茶
「冠茶」と漢字で表記されることもある、かぶせ茶。ワラや寒冷紗などで1週間前後茶園を覆い(被覆栽培)、日光をさえぎって育てたお茶のことを呼びます。陽の光をあてずに新芽を育てるため、茶葉の緑色が濃くなり、渋みが少なく旨みを多く含みます。
玉露(ぎょくろ)
新芽が2~3枚開き始めたころ、茶園をヨシズやワラで20日間ほど覆い(被覆栽培)、日光をさえぎって育てたお茶が「玉露」になります。同様に被覆栽培する緑茶として「かぶせ茶(冠茶)」がありますが、かぶせ茶は玉露よりも短い1週間前後の被覆期間です。
てん茶
主に抹茶の原料となるお茶。玉露と同じように、茶園をヨシズやワラで覆い(被覆栽培)、日光をさえぎって育てた生葉(一番茶)を原料としますが、蒸した後、揉まずにそのまま乾燥し、茎や葉脈などを除いた後、細片が「てん茶(碾茶)」となります。
抹茶(まっちゃ)
てん茶を出荷する直前に石臼で挽いたものが「抹茶」となります。
煎茶(せんちゃ)
新芽が出てから摘み取りまで日光を浴びたお茶を使います。茶摘みから後の製造は玉露と同様で、日本茶の大部分を占めています。
茎茶(くきちゃ)
玉露や煎茶の仕上げ加工工程で、選別機によって新芽の茎だけを抽出したお茶です。独特のさわやかな香りと甘みが特徴です。
芽茶(めちゃ)
玉露や煎茶の仕上げ加工工程で、芽の先の細い部分を選別したお茶。
番茶(ばんちゃ)
一番茶を摘み取った後の茶園を刈り揃え、その葉を蒸してそのまま日干しする。京番茶とも呼ばれる。
川柳(かわやなぎ)
新芽の形状が大きく、煎茶やかぶせ茶に入らない茶。
ほうじ茶
煎茶、番茶、川柳などをキツネ色になるまで強火で炒って(ほうじて)、香ばしさを引き出したお茶のことです。